バギオの高等教育機関
多くの人が「バギオは変わった」と言います。
数ヶ月から一年しか滞在しない人々には、いつも通りの景色にだけ多分見えるでしょう。「新しいバーがレガルダ通りにできたってさ。」
または、「セッション通りのあのレストラン閉まっちゃったんだってさ。」
多くの意味でバギオが変わったことは本当です。
現在、通りは車やジプニーで溢れ、セッション通りではたくさんの人が歩いています。
どのレストランに入るか決めるのは大変です。
バギオは観光地なので、普通のことなのかもしれません。
歩道をスキップするように歩き、バッグを背負い、手には本を持って、 「文化人類学の先生は機嫌が良くなさそうだったね」と話しています。 コーヒーショップやマクドナルドでは本にかじりついて読んでいます。 または、韓国人、日本人、アフリカやアサウジアラビアからの留学生たちが大学の制服に身を包んでいます。 ジョリビーのチキンジョイにかじりついていたり、 ジープを降りるために「パラ!」といつものように言っています。 時間が経つと確かに、バギオは観光地としてだけでなく、 多くの人が生活する街、学生達の街になっています。
現在、バギオには100を超える学校があり、
幼稚園、小学校、高校、大学、それに職業訓練校などです。
公立の小学校、高校で43校、大学は18校、インターナショナルスクールは16校、37の職業訓練校があります。
私立の幼稚園、小学校、高校、またはそれらのひとつかふたつの段階の教育機関だけでも59校あります。
保育園は各区域にあり、市内全域にあります。
過去数年、市内の学校数は掛け算式に増えてきたことは明らかな事実です。
たくさんの学生がバギオの高等教育に集まりますが、
その理由は、主要な教育機関が質の高い競争力のあるカリキュラムのコースを提供し続けているからです。
いくつかの歴史のある学校や大学などは、フィリピンの教育の歴史の中でも、バギオに見つけることができます。
イースターカレッジは、1906年にアングリカンの宣教師によって創立されました。
この学校が、バギオで初めて私立校として、アングリカンの信仰を説き、
8人の地域の子供たちに教育を勧めたことが始まりでした。
1909年バギオでの市政が始まってすぐ、ブレント・インターナショナルスクールが、
イースターカレッジと同じ創立者によって設立されました。
こちらがフィリピンで初めてのインターナショナルスクールであり、寮兼学校としてバギオに建てられました。
1911年には、10人の子供たちのための小さい学校がカトリックの宣教師によって創立され、
後にセントルイス大学と呼ばれるようになりました。
宣教師によって建てられた学校のほか、
フィリピン・ミリタリー・アカデミーは、1908年にマニラのイントラムロスから軍隊の幹部候補への教育機関として設立されました。
その後も、たくさんの学校が建てられました。
フィリピン大学は、国の主要な大学として、分校を1938年にバギオへ移しました。
戦時のキャンパスへの爆弾投下にもかかわらず、
大学は1961年に現在の位置へ高等教育機関として独立しました。
その後、2002年には、バギオ校は国立大学のひとつとして地位を獲得し、コーディリアラ地方の研究と調査に特化していきました。
第二次世界大戦後、最も規模の大きいうちの二つの大学が創立されました。
1946年には、コーディリアラ大学が建立され、その当時バギオ高等教育機関と呼ばれていました。
現在、1万3千人から4千人の学生が、初等教育、二次教育、高等教育に通っています。
そして1948年には、バギオ大学が市内の権力を持つ家族によって設立されました。
今では、13棟ものビルを抱え、1万5千人から2万人の学生を年々教えています。小学校、高校、大学があります。
バギオの歴史を振り返ってみると、これらの大学は、コーディリアラ(山岳民族)の人々へ、キリスト教もしくはカトリックの教えを啓蒙することを主要な目的として建てられたことが明白です。
最終的には、特定の宗教に属さない学校も、クリスチャン、カトリックの学校に続いて、市内に数多く建てられました。
2010年の人口動態調査によれば、バギオ市の人口は31万8676人だったそうです。
この間、各年代の学生の総人口は、13万8千人に達し、そのうち42%は大学生だそうです。
この傾向は衰えることがなく、バギオでは毎年この程度の学生数を保ち、さらに増加する可能性があります。
調査によれば、毎年学生の数は増え続けています。ですが、よく見かけるのは若い人達です。